ジュディ・ヒューマンさんを偲んで

アメリカの障害者の権利運動家ジュディ・ヒューマンが3月4日にお亡くなりになりました。
謹んでお悔やみ申し上げます。
アメリカのバイデン大統領より声明が出されましたので掲載し以下に当会役員のメッセージを記させていただきます。

バイデン大統領の声明

ジュディ・ヒューマンは、アメリカの障害者権利のための先駆者であり、車いすの戦士でした。車いすを使っているため幼稚園に入れないと校長に言われた時から、ジュディは残りの人生を障害者が本来持っている尊厳のために戦うことに捧げました。 彼女の勇気と激しい擁護の結果、リハビリテーション法、障害者教育法、障害者自立支援法という、障害者の教育、職場、住宅などへのアクセスを向上させる画期的な成果が生まれました。また、ジュディは2つの大統領府で指導的な役割を果たし、複数の障害者支援団体を立ち上げ、現在も国内外の人々に恩恵を与えています。 ジュディとは長い付き合いです。私が副大統領だったとき、ホワイトハウスで一緒に会議を開き、差別や放置されている人々の障壁を取り除くための継続的な取り組みについて話し合いました。彼女の遺産は、私の政権にいる多くの有能な障害者公務員を含む、すべてのアメリカ人にインスピレーションを与えています。 Jillと私は、Judyの夫であるJorge Pinedaとその家族全員に深い哀悼の意を表します。

 


ジュディ、ありがとう。

JIL顧問 中西正司

ヒューマンケア協会の立ち上げを間近に控えた、1986年の1月に、米国の自立生活センターを訪問することとなった私は、当時ダスキンの障害者リーダー養成研修を終えてカリフォルニアのバークレーにいた樋口恵子さんの紹介を受けて、ジュディ・ヒューマンと出会いました。ジュディは、全米各地のセンターのどこを訪問して、誰に会うといいのか、と私の訪米プログラムをコーディネートしてくれ、リーダーたちと繋げてくれました。各地での訪問を終えて、バークレーのジュディのところへ戻って、研修の成果を報告しました。彼女は、私を暖かく迎えてくれて、家に泊めてくれました。私の報告を聞きながら、とても適切な質問とアドバイスをくれたことを覚えています。
このことが縁で、ヒューマンケア協会を立ち上げて2年後の1988年に、日本でピアカン集中講座を開催し、ジュディに講師として来てもらいました。80人を超える参加者が全国から来て、三日間の講座を受講して、とても有意義な時間でした。
その後も、国際障害者年のイベントや、DPI世界会議札幌大会、ブラジルへの訪問など、ジュディとは何度も一緒に仕事をしました。
プライベートでも、ジュディとは、私の妻の由起子も親しく付き合っていました。彼女は日本料理が好きで、てんぷら屋さんに行ったり、すき焼きを一緒に作ったりしました。おいしいと言ってよく食べていたものです。日本に来た時に、一緒に新幹線に乗って移動していた時は、新幹線の乗り換え中に駅売店でいろいろなポッキーを物色していたことなど、日本のお菓子も好きでした。
アメリカを訪問した時に、ジュディが繋いでくれたリーダーの中でも、セントルイスの自立生活センターであるパラクオッドの、私と同じく頚損のマックス・スタークロフとパートナーのコリーンとは特に仲良くなりました。ジュディが危篤の時に、コリーンはすぐに病院へ行きました。ジュディの意識がなくなりかかった時に、コリーンから、「今ならまだ彼女の心に話しかけられるから」といって、私と由起子にメールをくれました。この連絡が日本時間の未明であり、翌朝に確認したため間に合わず、とても残念に思います。
ジュディは、教員になりたかったけれど、教育委員会から教員免許を与えることを阻止されました。彼女は裁判に訴えて勝利し、車いすに乗った、州で最初の教師となりました。このエピソードからも、彼女の権利意識の高さがわかります。日本ではこの点が少し弱いですが、交通アクセスや介助派遣など、障害者が地域で生活をできるように活動していくことを、自立生活センターの役割として訴えてきました。日本には施設入所者がまだ多いので、これらを解消するためのサポートをきちんとやっていくように、ということで、若い障害者の自立促進に努めるようにジュディには言われました。
ジュディも、マックスもコリーンも、私がILを引き継いでくれたという気持ちが強かったようで、何かあればいつも連絡をくれて、相談をし合っていました。
ジュディ、ありがとう。


インクルーシブを体現した愛深き人ジュディを偲んで

JIL副代表 今村登


2013年に盛上さんの紹介で佐藤くんがヨシコ・ダート(YD)さんに会いに渡米し、ADAの父と称されるジャスティン・ダートさんのことや、アメリカの障害者運動のことについてじっくり話を聞いて来た。YDの話に魅了された佐藤くんは、翌年に仲間を連れて再度訪米するのでその際に色んなリーダーを紹介してもらうことを約束し、帰国後平下くんと私に声をかけてくれた。

しかしその直後にDPIの事務局長に就任することになった佐藤くんは、どうしても仕事の関係で日程が取れず、2014年は平下くんと私、そして若手の近藤くんで渡米し、盛上さんとYDにご紹介いただいたリーダー達に面会した。
この時のミッションは、色んなリーダー達に会い、日米の障害当事者同士の繋がりを強化(再構築)すること。そして、翌年(2015年)にワシントンDCで行われるADA25に日本からも参加させてもらう許可と協力を得ることだった。
最初シカゴでマーカに面会したことを皮切りに短期間で複数のリーダーたちに会い、最後はDCでジュディに会った。
すでに多くのリーダー達に会い、「よく来てくれた」と歓迎され続け、ジュディに至ってはご自宅に招待され「えっ、あのジュディ・ヒューマンの自宅に行けちゃうの?」っていい気になっていたが、その時私達はジュディに叱られた。
「あなた達、なんで男ばかりなの?来年は女性もいなきゃダメよ!」
お恥ずかしいながら、それまで「ジェンダーバランス」という視点が抜けていたことにハッとさせられた。
こうして、ADA25は多くの若手の女性リーダー達に声をかけることになり、介助者を含み総勢約60名もの大所帯で真夏のワシントンDCに向かったのだった。
その時参加してくれた若手の人達が主となりADA27を企画実行し、グローバルILサミットも盛り上がりWorld Independent Living Center Network(WIN)が発足した。
ADA25、27に参加した若手リーダー達が今、男女共に全国各地で運動の主軸を担っている。
特に女性陣の躍動は素晴らしい。
あの時ジュディに叱られていなければ、未だ日本のIL運動はジェンダーバランスという視点、意識が欠け続けていたかもしれない。
ユダヤ人で、祖父母はホロコーストに遭い、自身は障害故に入学を拒否され、教員になることを拒否され、社会からのあらゆる拒否、排除にあっても、常に仲間と共に立ち向かい道を切り開き続けてきたジュディ。
「障害者運動・ADAの母」とも称されるジュディは、アメリカの公民権運動、女性解放運動を参考に障害者運動を牽引してきたという。
さらに世界各国に足を運び様々な差別を目の当たりにしてきた彼女の視点は、障害種別やジェンダーだけでなく、国や人種、言語、宗教、年齢、職業あるいは地位などの違いをもろともせず、誰とでも分け隔てなく、常に気さくで優しさと厳しさを持った愛情深いものだった。
WINが発足した2017年のグローバルILサミットの会場に私は居られなかった。
前年の2016年に起きた相模原障害者殺傷事件から1年後の追悼集会を担当していたため、遅れて渡米したからだ。
DCでジュディに再会した時、「あなたどうしてたのよ?姿見ないから心配して、ずっと探していたわよ!」と駆け寄ってきてくれて、理由を話すと
ギュッとハグしてくれたことを昨日のように思い出す。
彼女のことだから、今頃はJDやマーカ等、多くのリーダー達との再会を楽しんでいるだろう。
私もやがてその輪に胸を張って加われるよう(胸張れなくてもジュディのことだから排除しないだろうけど)、残りの人生、しっかり生きていこう。
「明日死ぬと思って生きなさい。永遠に生きると思って学びなさい」ってことだな。
ジュディに出会えたことと功績に心から感謝し、ご冥福をお祈りいたします。