『当事者エンパワメントシンポジウム』

「人として自信と尊厳をもち、地域で力づよく生きていきたい」
長位 鈴子

1.沖縄自立生活運動の始まり
2.沖縄の戦後福祉制度


1.沖縄自立生活運動の始まり
 今年でNPO法人になって5年になります。でも5年になる前からの歴史があるので、そこから少し当事者が、障害者が何をしてきたかっていうことを話しながらいきたいと思います。資料のほうにも書いてありますけれども、1990年ごろ沖縄の国立病院に、20何年入院をしていた方がいます。その方はずっと長いこと思い続けて、「自立がしたい、病院じゃなくて地域の中でみんなと同じような苦労がしてみたい」ということをずっと言い続けていた人がいます。そのころ沖縄で全身性の障害を持っている人たちが地域の中で生きるという事、生活している人たちがいないに等しかったんです。それで本当にできるのかなって思いながら、その人を病院から出すことから始まりました。

 本当にその人を病院から出て生活する。その当時は本当に福祉制度もそんなになくて、その人はいま宜野湾なんですけれども、宜野湾市でもホームヘルパー制度は週に2回から3回、一回1時間から2時間ぐらいしかなかったと思うのです。それが10年前です。ホームヘルプサービスがないと困るのですが、でもそれで施設から彼が出てくると決めた時に、私たちでも何かできるんじゃないかという事で、一人一人が集まって小さな会ができました。小さな、わずかな力で何とかできるとは思っていなかったので、後は地域の人たちに、すごくたくさんの人たちに関わってもらって、介助者ボランティアを作り、それが一人一人増えて今のような形になっています。

 当初私たち障害者も、取り巻く関係者も含めて、自分たちの意思決定で何をやっていいかがわからなかった。障害のない人たちとどういうように関わっていいのか、何を発言していいのかわからなかったんです。それが一つ一つ経験を積み重ねて、本当にみんなで悩みながら、時には本当にこの会なんかなくていいじゃないかっていう形で、財源的な事、人的な事もあって悩んだんですけれど、でもいま自分たちがやらなければ自分たちの生活守れないんじゃないか、だから「やれるだけはやろう」、ということで5年。5年目にNPO法人という形をとって現在に至っています。

 重度であっても一人の人として、あたり前に地域の中で生きていく、そのためには福祉サービスは必要です。でも自分たちでもそのサービスを作ることができる、ということを信じながらやってきました。

2.沖縄の戦後福祉制度
 沖縄と日本の大きな違いには、歴史の違いがあります。これは資料の30ページからもあるんですけれど、まず第1に1945年に第2次世界大戦。沖縄が戦場になり、犠牲者が10万人とも言われています。敗戦後、米軍占領下、軍政府と住民で、生活物資も配給制度でした。

 今度は1946年から47年には、本土では戦争で福祉という、戦争孤児とか傷痍軍人が社会復帰のために、色々な障害者の制度ができてきました。が、沖縄ではその当初はまだ琉球国で、1953年に社会福祉事業法や生活保護法という形で、その間は7年間という開きがあります。1962年には、琉球諸国も日本の一部だというように国のほうが認め、それで米軍基地の長期使用と引換えに米軍の援助額を増額。

 今度は本土に遅れた福祉制度のおかげだったんですけれども、本土の方では養護学校がもっと早くスタートしていました。でも沖縄では養護学校ではなくて、普通学校に行ける障害者・児の人たちは学校に行っていて、50代前後の人たちは「あっ、小学校のころにまだいたよ」、45歳くらいの人も「普通学校にいたよ」と言う人たちがいます。

 本土に遅れてですが、養護学校が義務化になったと言う事で、地域から障害児が関わる事をなくす、分離教育に変わっていきました。あと長期使用の基地と引換えに、今度は沖縄ですごく多額の援助金が入ってきて、それで障害者福祉政策が始められました。その時には施設を作るという大きな目的の中で、人里離れたところに、入所施設、50人規模、100人まではいかない、中規模と言われているのですが、そういう施設が沖縄は人口の割にはすごく多くできています。障害者、特に重度の人たちは、そういう施設に、言葉は悪いんですけど、自分の意思とは反して収容された、されているという事になっています。

 あと沖縄から本土、県外に発信できる事は本当に、ここにきてすごく日本の制度が沖縄にも入ってきていますけれども、そういう沖縄と本土の歴史が、戦争の爪あと、本当に戦争で市民全体が生きていく事に必至で、その分よかったところと、またその分色々な制度のところで遅れをとっている。情報も一人一人の意識も、すごく差があるっていうことを最近思います。

 沖縄県は小さな島も含めて18ヶ所から成り立っています。島国です。その中で生活していくために、隣近所の助け合い「ゆいまーる」精神という形で言われています。しかし地域や隣近所の助け合いができない重度の障害者は、地域から外れたところで生活をしています。隣近所の人たちも、本当に障害者を見た事ないよ、という離島も現在もあります。時間がきました、続きは次に。